岩槻の歴史
情緒ゆたかな城下町として500年の歴史に彩られた人形のふるさと。
室町時代、長禄元年(1457年)太田道灌公が関八州の北の砦として岩槻城を築いて以来、城下町としての岩槻の歴史が始まります。
その後、慶長8年(1603年)徳川家康が江戸に幕府を開いてからは、岩槻は江戸近郊の城下町として、また日光御成街道の宿場町として賑わい、岩槻城は代々徳川氏の譜代大名が城主となり統治しました。
明治4年(1871年)廃藩置県に伴い岩槻藩は岩槻県となり、さらに浦和・忍・品川・小管の4県を合併して埼玉県となり、初の県庁が岩槻に置かれました。その後県庁は浦和に移されましたが、このことからも太田道灌公の築城以来、明治初期にいたる間、岩槻がこの地方の産業・交通・文化の中心地として隆盛をきわめていたことがわかります。
平成17年4月1日さいたま市と合併し、さいたま市岩槻区となりました。岩槻区はさいたま市の東部に位置し、緩やかに起伏した台地の緑や元荒川の水辺など豊かな自然環境に富んでいます。由緒ある史跡が多数点在し、武蔵野の面影が濃く残る郊外には、岩槻城址公園があり、近年観光のまちとしても注目されております。
今後、(仮称)岩槻人形会館が、さいたま市の文化資源の一つである人形文化推進の核となる施設として、多くの方に人形に親しんでいただくと同時に、人形づくりの一層の振興や後継者の育成に寄与しながら、観光と町づくりの拠点として完成する予定です。
江戸時代に始まる人形の歴史
岩槻の人形づくりの歴史は、日光東照宮の造営と深いかかわりがあります。
約370年前の寛永年間(1634年~1647年)三代将軍徳川家光公が、日光東照宮の造営にあたって全国から優れた工匠を集めました。当時岩槻は、日光御成街道の江戸から最初の宿場町であったため、東照宮の造営や修築に携わった工匠たちの中にこの土地に住み着いた者も多く、その人々が付近に数多く植えられている桐を使って箪笥などの製品を作るようになったと言われています。その中には人形づくりをする者もいて、その技術を広めたといわれます。 新版風土記によると、元禄10年(1697年)京都堀川の仏師恵信が岩槻で病に倒れ、時の岩槻藩主小笠原長重氏の藩医の治療を受けて回復後も岩槻にとどまり、付近で産出される桐粉に着目し、しょうふ糊で練り固めて人形の頭を作り始めたと言われています。岩槻周辺は桐の産地だったので原料の桐粉が豊富で、しかも人形頭の塗装に使用する胡粉の溶解、発色をよくするために重要な水に恵まれていました。こうして恵信の残した桐塑頭の技法は、藩の武士や農家の人々の内職・趣味・兼業等によってその後も受継がれ、幕末には岩槻藩の専売品に指定されるほど重要な産業となり今日に受け継がれております。
現在、「江戸木目込人形」・「岩槻人形」が経済産業大臣から伝統的工芸品として指定され、生産量・生産額とも日本一の人形のまちとなっています。
人形の歴史
幸多かれの祈りをこめて、悠久の昔に始まる人形づくり。
人形の歴史は、心の綴れ織り。
紀元前二千年の古代エジプト王族の墳墓から発見された木彫人形が、世界でもっとも古い人形だといわれています。魔よけや厄払い、豊作や出産の祈りなど、さまざまな用途で人形がつくられてきました。日本でも平安時代には、草や紙で人形をつくり、"ひとがた"と呼んで厄払いに使ったり、女の子のままごと遊びに用いられていたといいます。
多彩な人形が江戸時代に。
江戸時代になると商工業の発展とともに人形づくりも広く盛んに行われるようになりました。粘土人形や木製人形なども郷土みやげとしてつくられ、出世開運や商売繁盛を人形にたくして祈願することが流行したりしました。三月と五月の節句に人形飾りがひろく行われるようになったのも、この頃。また、興行用としての糸あやつり人形やからくり人形も登場。子供たちの玩具としての人形や、観賞用としての衣裳人形や木目込人形、実在の人形を模した浮世人形なども作られるようになりました。
人の心を伝えて、今
江戸時代から平成と西欧文化の影響などを受けながら、しかも日本独特の伝統を築きあげてきた人形づくり。時代とともに少しずつ新しい技法が加えられてはいますが、人形にこめる人の心はいつの時代にも変わりありません。人の幸を祈って丹念に手作りする人形師の心、そしてそれをいつくしむ心こそ悠久の昔から受け継がれてきたものなのです。
ひなまつり
平安時代、宮中の幼い姫たちが、紙や布、草などでつくった人形で遊んでいたのが、ひな人形のおこりといわれています。人形には厄払いなどの意味がこめられ、3月初めの巳の日に、人形に汚れや禍いを移し、川や海に流して自分の身をきよめたと伝えられます。内裏びなのふくよかな美しい微笑みとこの習わしにこめられた幸運を願う心は、いつまでも伝え続けていきたいものです。
端午の節句
奈良時代には病気や災厄を払うための行事で、宮廷ではこの日に菖蒲を飾り、騎射(きしゃ)の儀なども行われたといいます。鎌倉時代以降、朝廷から武家に儀式が受継げられ、菖蒲が尚武に通じるところから盛んに祝いました。兜や人形、武者絵、鯉のぼりなども飾られるようになり、男子の誕生を祝う行事として、伝統は今も脈々と日本人の生活に息づいています。
人形のできるまで
幾百という工程を経て。
ひとつひとつの丹念な手仕事で、人形の顔に命の息吹き。
岩槻の人形は、すべて昔ながらの手仕事でつくられます。まず、どんな人形をつくるか企画を立て、次に頭(かしら)づくりと、衣裳つけ(胴づくり)、手足づくり、小道具づくりはそれぞれ分業です。こうして部分的に仕上がった製品を製造問屋で完成品に組立て、市場へ送り出しています。丹念な手仕事による実に何百という工程を経て一つの人形が出来あがるのです。
頭づくり
人形のよしあしは顔で決まってしまうと言われるほど、頭づくりはもっとも熟練した腕を必要とする工程です。まず桐粉としょうふ糊を練ったものを型で抜き、乾燥させてから目をはめ込みます。そのあと何回も塗りを重ね、目鼻を小刃で切り出し、さらに上塗りをして肌の艶を出すために磨きます。そして、細い筆で眉・まつ毛を描き、頬に紅をさし、口紅を入れ、小さな口もとに舌や歯をつけます。ここまでくると、いよいよ世界でたったひとつの表情、つまり人形の命の誕生です。最後に植毛し、これを結いあげて頭が完成します。最近は石膏の頭もたくさんつくられております。
手足づくり
頭と同じように、型抜きをした桐塑にご粉を何回も塗り重ねて乾かし、上塗りをして仕上げます。弾力に富んな樹脂製も手足には適しております。
衣裳つけ(胴づくり)
縛り固めたわら束に和紙を貼り、手足をつけて土台をつくってから衣裳つけにとりかかります。衣裳は西陣織などの豪華な織物。和紙を裏貼りして裁断し、部分ごとに仕立てておきます。そしてまず襟を重ねますが、襟元は人形の骨格をだすきめどころ、胴づくりの重要な部分です。それから上着をきせ、振り付けをします。また、木目込人形の場合は、最初に頭と同様にして胴の型抜きをし、これに布地を木目込む溝を掘ります。そして、しわやたるみのないよう、丁寧に布地を木目込んでいきます。
小道具づくり
たとえば段かざりびなの小道具は全部で二十以上。桧扇の絵付なども一枚ずつ手描きされ、細かい手仕事の連続です。
組立
仕上がった頭、胴、小道具を製造問屋がまとめ、セットにして全国の市場へ送り出します。
人形の見比べ
江戸木目込人形とは受け継がれる人形師の技、粋に冴えて……。
桐粉をしょうふ糊で固めたものに筋彫りをして、そこに布地をきめこんで作ります。この歴史は、元文年間(1736~1740)に京都上賀茂神社に仕える人が祭事に使う柳の木で作ったのが始まりだといわれています。
始めは、「賀茂人形」と呼ばれていましたが、その製法から今は「江戸木目込人形」となりました。
岩槻人形は
岩槻地域を中心に作られる衣裳着人形の総称です。
- ひな人形 親王雛、三人官女、五人囃子 など
- 五月人形 武者人形、金太郎、鐘馗 など
- 浮世人形 花咲爺、能人形、歌舞伎人形、御所人形、市松人形 など